「さてここで,内言の発生から,内言が大人でどのような働きをするかという問題に移るとすれば,われわれは,たちまち動物や子どもに関係して立てたのと同じ問題 -大人の行動においては思考とことばとは必然的に結びつくものではないのか,これら二つの過程は同一視し得るのではないか? -につきあたるであろう.われわれがこの問題に関して知っていることのすべては,われわれにこの問いに対して否定的な解答を与えさせる.
思考とことばの関係は,この場合ことばと思考の過程が一定の部分で一致することを示す二つの交差する円によって図式的に表すことができよう.その部分というのは,いわゆる「言語的思考」の領域をさす.しかし,この言語的思考は,思考のあらゆる形態,ことばのあらゆる形態をおおうものではない.言語的思考と直接の関係は持たないような思考の大きな領域がある.これに入れなければならないのは,まず第一に,ビューラーが指摘しているような道具的・技術的思考,一般に実際的知能の領域と呼ばれているものすべてである.
さらに,周知のように,ヴュルツブルク学派の心理学者たちは,思考は自己観察によって確かめられる言語的形象や運動の参加なしにも行なわれ得るということをその研究によって明らかにしている.最近の実験的研究は,また,内言の活動や形式は,被験者の行なう舌や唇となんらかの直接的な客観的関連のなかにあるものではないことを示している.
同じようにして,人間の言語活動のあらゆる形態を思考に関連づけることにはなんの心理学的根拠もない.たとえば,私が自分の暗記している何かの詩を内言の過程で再生するとき,あるいは実験問題として出された何かの文句を反復するとき,このような場合には,これらの操作を思考の領域に関係づけるような材料はまったく存在しない.思考とことばを同一視したために,すべての言語過程を知能的なものとしなければならなかったワトソンはこのような誤りをもおかしている.そのため,かれは記憶における文章のたんなる再生過程をも思考と関係づけねばならなくなっている.
同じようにして,感情表現的機能のことば,「叙情的色彩」のことばは,ことばのあらゆる特徴をもってはいても,本来の意味の知的活動に属させることはできないだろう.
われわれは,このようにして大人においても思考とことばとの融合は,言語的思考の領域に関してのみ意義をもつ部分的現象であり,他の非言語的思考および非知能的言語の領域はこの融合の遠くからの非直接的影響は受けるが,それとなんらかの直接的因果関係にあるものではないという結論に到達するのである.」