今回は,博士論文の次のような記述について説明します.
「さらに重要なことは,心象(イメージ)である.ヴィゴツキーは,内言の意味は心象であると述べているが,これは思考に心象が深く関わっている証拠である.」
前回,授業において自己中心的言語や内言を利用した授業展開が重要であることを書きましたが,読まれた方はそれらの言語を用いた思考は,いったいどのようにしてなされているのかということに関心が向くはずです.
前出の博士論文の記述からは,ヴィゴツキーが「思考と言語」の中で「内言の意味が心象である」という直接的な表現で記述をしているように思えますが,そうではありません.このことに関しては,中村和夫氏著の「ヴィゴツキー心理学」に学ぶことが多いです.

中村氏は,この本の「第2部 内言の概念をめぐって」のなかで,ヴィゴツキーの内言論について解説していますが,ここでは簡単にまとめだけを紹介します.詳しく知りたい方は,じっくりとお読みください.
まず,ヴィゴツキーの内言論では2つの局面があるということです.一つは「言語的思考,特に概念的思考の発達論」という局面であり,もう一つは,「内言の意味論」という局面です.そして,どちらの局面からとらえても,内言論に共通することは,「内言論は人格論である」ということです.
概念的思考の発達論という局面についてヴィゴツキーがどのように考えたかについて中村氏は,「言語的思考の発達の最終段階,即ちそれは概念的思考の段階において,人間的に最も高次な意識・人格の発達を見ていた」と述べています.これを学齢期に当てはめれば,小学校の高学年から中等教育の時期であると言うことです.そして,概念的思考とは,まさに言語的思考であり,学校においての科学的概念の学びによって,自己意識の成立と深化がもたらされると述べています.
従ってこのことを根拠とするならば,小学校の高学年に近づけば近づくほど次第に内言による学習行動を仕組む工夫が,指導案の作成には絶対条件となる訳です.そうしないと,内言による思考の訓練が極端に減ることになります.
また,内言の意味論という局面については,「意味」と「意義」の区別について,中村氏は次のように論じています.
意味とは文脈が変わると,その言語が指し示す内容が変るものであるということです.例えば「赤」という言語は,植物の実の色であれば「トマトの色」であったり,人々の思想の範疇では「共産主義の色」であったり,国語科の読み取り手法の一つである心情色彩法では,「喜び,楽しさ,嬉しさなどの心情を表す色」であったりします.

一方で意義は,人や状況によってまちまちであるということはなく,一定した不変な内容と言うことです.
従って「赤」の意義は,「可視光のスペクトル色の長波長端の色」と言うことになります.

内言の意味論についてヴィゴツキーが「思考と言語」で述べた内容について中村氏は,「内言は主観的な世界であり,語の意味は,語によって表現されるものに関係するきっかけが,意識の中にどれ程存在しているかによって決定される」と説明しています.これは以前から私が述べている「内言と記憶された知識との間に連関があるかないか」という問題になると考えられます.

この図は,中村氏の説明を私が図にしたものです.ヴィゴツキーは「きっかけ」という言語を,モメント(=モーメント moment)という言語で書いています.
この図において事柄A~Eは,これから発生する内言と関係を持つ事柄です.これらは内言が発生する前,つまり普段は潜在化して意識上には上がって来ません.そうでないと人間は,その事が気になって生活ができません.
このような時に内言が発生すると,この内言との関係事項である「事柄A~E」(意味記憶やエピソード記憶)のうち,フック(きっかけ)が付いた事柄A,C,Dは顕在化して内言とつながりましたが,事柄B,Eはフックが無いために潜在化したままであることを表しています.
では,このフックは何でしょうか.このことまでは,中村氏は言及していませんが,私の見方では,これは情動的な経験以外にはないと考えています.心が動かされた出来事は,その出来事を表す言語と深くつながります.つまりそれらは,モメント(上の図ではフック)を持つ記憶痕跡と言うことになります.
このことに関連した内容は,すでに以下の記事でも紹介していますので,お読みいただければ幸いです.
授業における知識の形成過程 - 記憶の再生について考えるブログ
さて,ヴィゴツキーは思考の内容や意識の内容を指す言語として,「思想」という言語を使用していますが,思想はそのまま内言の「意味」に外ならないことになります.従って,上の図の四角で囲まれた内言や内言によって顕在化した記憶,それに潜在化している記憶は思想であり,内言とそれによって顕在化した記憶は,イメージの姿で意識の中にあると言うのです.このことをヴィゴツキーは直接的な表現では「思考と言語」の中では記述していません.
しかし「思考と言語」の以下の箇所などは,内言の意味が心象(イメージ)であることを読者に推測させる表現です.
p397L9「内言を外言の記憶の形象における再生とみる著者(注:ヴィゴツキー)だけが,内言を外言の鏡のような反映と見ているのである.」
p415L1「単語の意味というのは,ポーランが言うように,その単語によってわれわれの意識のなかに発生する心理学的事実のみである.」
この他にも確認できますが,ここでは省略します.つまり,ヴィゴツキーは内言の意味をイメージ(心象)と主張しているのです.
しかし,このことは誰でも簡単に認識することで,納得できるはずです.
例えば,今日はゴルフの予定だとします.でも,朝からどんよりした天気です.このようなとき,皆さんならどのような行動を取りますか.ある人は,手元にあるスマホでウェザーニュースを確認したり,またある人は,テレビの天気予報を見たりしますよね.その時,あなたの脳では様々な思考活動が起こりました.どうですか,「今日の天気はどうだろうか」「ちょっとスマホで調べてみよう」などと内言が発せられましたか.
おそらくそうではなく,例えばゴルフ場がある場所の地図や実際のゴルフ場の情景が想起されたり,あるいはスマホの画面上にあるウェザーニュースのアイコンが想起されたり,実際にアプリを使って天気を調べたりしたことの映像が出てきたのではないですか.または,自然と手がスマホに伸びて,アプリを操作したのではないでしょうか.

そして,思考したことによる行動は人格の表現です.ですから内言論は人格論であるということで納得するはずです.
人の行動としての出力は,内言に由来しますから,教育においてどのような方策で内言の力を磨くかが重要ではないのでしょうか.
しかし,私の経験上では,外言ばかりがもてはやされ,「発表や発言が多い授業=良い授業」という考え方が教育委員会等の指導の定番でした.しかも,学力は一向に上がらないので,挙句の果ては家庭学習にその原因を転嫁することがなされてきました.
教育の現場で,これまで以上に内言の力を高めることができたなら,正しい判断ができるようになり,例えば詐欺の被害者になることも少なくなったり,政治的な問題も正しい判断ができるようになるのかも知れません.
因みに,ここからは少し宣伝めいたことになりますが,私が考案した記憶再生マップを利用した学習は,内言の力を高めるものと自負しています.(^^;)