今回は,「5. ヴィゴツキーに見る概念形成」の2回目です.
前回述べたことは,授業では自己中心的言語(呟き)や内言による思考を取り入れた学習行動を授業の展開に盛り込むことが重要であることを述べました.
ところが,これは私の勤務した佐賀県内の学校でのことですが,そのような学習行動が指導案の展開に盛り込まれた授業をほとんど見たことはありません.とにかく,最初から最後まで児童や生徒が発話する授業ばかりで,それが良い授業と考えられていました.また,一昔前の教育学部の授業では,ピアジェは学んだがヴィゴツキーはやらなかったとおっしゃる先生も多く見受けられました.
教育界のような権威主義的社会では,〇〇長,〇〇委員会,〇〇主事などの発する言葉が神の声として現場に届いてしまいます,間違っていなければいいのですが,言葉を発する本人も上司の言葉をそのまま伝えてしまいます.本来ならば,これらの人々がもっと学ばなければならないと思いますが,「自ら学ばぬ指導者」とでも言いますか,なかなか現実は上手くいきません.
今回は,このブログをお読みいただいている先生から質問を頂きましたので,その説明を行いたいと思います.ご質問は次の通りです.
『ピアジェの提唱した自己中心的言語に対するヴィゴツキーの反論は興味深いです。ところで、ヴィゴツキーによる言語発達に対する考えを説明した図の中の内言についてですが、内言に媒介された「言語的思考」は分かりますが、それとは異なる「道具的技術的思考」とは、どういうものか、良く分からないので、ご教授下さい。』
ご質問に関係する博士論文の記述は,以下の通りです.
「つまり,外言―自己中心的言語―内言という発話機能(内言においては,それが発せられることはないが)において思考と直接結びつくのは,自己中心的言語と内言であるとし,内言に媒介された思考を言語的思考と呼び,知能に媒介された道具的・技術的思考と区別している.」
ここの記述における言語的思考は何となく理解できるが,道具的・技術的思考について説明せよと言うことです.
まず,ヴィゴツキーが主張した言語発達の順序性に関してですが,例えば,幼い子が自動車を見て発話する「あっ,ブーブー」等が外言です.これは「言語と物の一対一対応」になります.この場合の外言は,まぎれもなく身近に居る親などに向けられていますからコミュニケーションの道具として機能します.このような言語と物の対応は会話成立のための一丁目一番地です.例えば私たち大人であっても,知らない言語を話す人と対面したとき,最も初期に行う行為は,「これは何と呼びますか」ということですね.幼児がブーブーと発話することも,これと同様の行為と考えられます.ところが幼児がブーブーと発声している時,これが思考かと言われれば疑問が残ります.なぜならば,この場合の幼児の「ブーブー」は,外界に自動車の印象を認知した後に,既に持っているブーブーと言う「音(おん)」を脳から引き出して発話したということにほかならず,その時間は瞬間的であり,当然ながら言語を利用した発話などではなく,ましてや思考などは行っていません.
ところがヴィゴツキーは,このような外言とは意味や機能が異なる別の種類の外言が出現することを幼児が自由に遊んでいる最中に,その幼児が困ったり考えを攪乱したりする仕掛けを提示して確認しました.それが自己中心的言語と呼ばれるものです.これは一般的には,呟きなどと呼ばれています.この部分の記述は,「思考と言語」のp58L6~L19に書かれていますので,本をお持ちの方はご確認下さい.
ヴィゴツキーは幼児期に自己中心的言語が出現するようになってから,思考が始まると述べています.ヴィゴツキーは,そのことを「われわれは,明らかに自己中心的ことばは,純粋に表現的な機能,放電の機能のほかに,子どもの活動にたんに同伴するということのほかに,きわめて容易に真の意味の思考となるということ,すなわち計画的操作の機能,行動のなかで発生した新しい問題を解決する機能をはたすということを言わなければならない.」と述べています.この記述は,「思考と言語」のp133L1~L4に書かれています.
その後の記述でヴィゴツキーは,この自己中心的言語が心理学的に内的なもの,つまり,自分自身に向けられるものへと変化し,その後に生理学的に内的なものになると述べました.つまり,内言の出現です.この記述については,「思考と言語」のp133L5~L10に述べられています.つまり,真の意味の思考は自己中心的言語や内言によってもたらされるということになります.ここの部分の理解は教師にとって非常に重要です.
従って授業では,学習者に思考させるためには,自己中心的言語(主に呟き)や内言を児童・生徒が発するような仕組みを用意することが必要になってくるのです.そして,この自己中心的言語や内言を用いた思考は,言語を介していることから言語的思考と呼ばれるのです.
ここまでの記述を整理すると,外言の出現は比較的早い段階で起こり,その後に脳への刺激により自己中心的言語が出現することが明らかになりました.そして注意せねばならないことは,ここで述べている外言は,小学校や中学校の授業中に児童・生徒が話す外言とは異質なものであるということです.授業中の児童・生徒の外言は,ピアジェの述べている身の周りの様々な人々に充てた社会的言語としての外言で,これは思考の過程を経て発話されたものなのです.ここで,この時の思考について考えると,言語的思考と道具的・技術的思考が存在するのです.一方で,自己中心的言語である呟きが発せられたときの思考は,どちらかと言えば道具的・技術的思考であろうと思われます.
では,ヴィゴツキーは,言語的思考と道具的技術的思考をどのように説明しているのでしょうか.それは,「思考と言語」のp135L16~p136L4に書かれています.この部分の記述は長いですのでリンクを張っています.じっくりとお読みいただければ幸いです.この段落に出てくる「ビューラーが指摘しているような道具的・技術的思考」ですが,自身が持つ言語や獲得した概念を問題解決のために道具のように利用する思考です.例えば,学習で獲得した知識が言語で表現できるなら,その言語を記憶想起させながら課題を解決するときの思考と考えられます.ですから,問題解決に対して,知識を道具のように使ったり,技術として利用したりすることで解決しようとする思考だと言えます.学校教育では,学習のまとめを言語で行うことが多いですね.
そこで,ここの段落を読んで思考と言語を図にすると,以下のような図になると考えています.ヴィゴツキーは「思考と言語」の中では関係図を描いていません.色々と調べましたが,ここのページの図を描いたものを見つけることができませんでした.この図は,改変の余地があると思います.よろしければご意見を頂けると幸いです.

この図を見て思うことは,非知能的言語は例えば「ヤバッ」と呟いたり,幼児が「ブーブー」と言ったりすることであろうと思われます.このような言語は,知能的とは言えません.
また非言語的思考とは,イメージによって思考したり判断したりする部分であろうと考えました.例えば,サッカー選手がボールとゴールを見て,シュートするなどです.この場合は,言語を利用した思考などをする余裕もありません.児童が,算数の面積を求める問題を呼んだ後,瞬間的に図形を変形させるなどもこれに当たると考えられます.
さらに道具的・技術的思考は,学習によって獲得した公式などを用いて効率よく解を導くときなどの思考と言えます.学校の授業で話題になるのがこの思考です.
そして,最も重要なのは,言語的思考の部分で,自己中心的言語(呟き)や内言による思考です.冒頭でも述べましたが,このような学習行動は,あまり実践されていません.
この言語的思考の部分は,自己の脳内では,非言語的思考や実際的知能の部分とは物理的につながっているので,常に情報が行き来するような訓練を行うことが重要と言えます.なぜならば,内省できるからです.
現在,様々な情報がスマホを媒体として脳内に入り込んでいます.つまり,他者とつながっているのは,実際的知能の部分と非言語的思考の部分であり,そこだけの思考で意思決定を行っています.詐欺や社会情勢の正しい判断ができない原因の一つがここにありそうだと考えています.
今回は,質問にお答えしました.ヴィゴツキーの著書「思考と言語」は,学校教育に関係する人たちに多くの示唆を与えてくれます.色々なご意見をお伺いさせて頂ければ幸いです.