全国学力テストの結果が出ました.全国的には,児童・生徒の成績が低下したことが話題に上がっていました.これには,様々な要因が考えられます.
指導内容やそれに係る評価の問題については,文科省が十分に反省すべきでしょうね.
学習用タブレットの問題は,スマホ利用の問題とも関連して,医学や脳科学との関連性で再考されるべきでしょう.児童・生徒は,学校でタブレットを8時間程度利用し,家庭ではスマホを数時間利用します.つまり,寝ている時以外は常にスマホかタブレットを注視し操作していることになります.家庭でのスマホの利用を抑制できなければ,学習用タブレットの利用を制限することも必要かもしれません.せめて学校で生活する時間だけでも,情報端末機器から距離を置いて,脳をもっと使う経験を優先することは意味のある事のように感じます.
さて今回は,このことに関係のある話です.「4.理解することと能力を身につけること」について述べたいと思います.今回も,博士論文の原文に沿って若干の補足や文末表現の修正を行い,ほぼそのまま転記します.なお写真は,説明のために今回用意したものです.
【博論ここから】
教科教育において学習内容は,文章や図表,数式など形式知として板書や教師の発話によって児童に提示されます.授業の目的は,児童・生徒がそれらを思考や発言の素材として自由に使うことができるようになることです.ところが,(現在の学校教育では)全ての児童・生徒が自由に使うようになるかと言えばそうではなく,部分的に利用できたり,全く利用できなかったりする人も見受けられます.

【解説】ここで述べているのは,このような板書の授業があったとして,下図のAのみ,つまりこの場合は,言語で表現された公式のみ獲得して授業を終わる児童がいることが問題であると述べているのです.しかし,この板書にはBやC,DのようにAを導くために利用したコンテンツが多数あるのです.
児童が学習で利用したこれらの知恵は,一般的にはまとめの段階で話題に上りますが,児童が記憶すべき内容としては公式のみが取り上げられ,特に重要視されない場合が多いように感じます.しかし,物事を因果関係で述べるならば,原因である図形の考え方は全て重要であることには違いありません.

【博論続き】
このことに関連して教師どうしの会話では,「理解」という言語がよく使われます.あの児童は学習内容をよく理解するとか,あまり理解できないなどは,授業の成果を議論する場合によく聞かれる会話です.例えば授業中の児童・生徒の発言が,学習の課題に対して,教師の意図する内容を伴った的確な表現であれば,その児童・生徒が学習内容を理解できる,又は理解できたと判断します.しかし,一旦理解したとしても,その状態が永久に続くとは限りません.むしろ,学校教育においては,児童が理解したことを忘れてしまうことはよくあることです.

一方,「能力」という言語については,例えば算数科において,計算が素早くできる児童に対して,あの子は,計算の能力があるとか,計算力があるなどの表現が使われます.また国語科では,物語の登場人物の心情を豊かに読み取ったり,説明文での筆者の主張が述べられている箇所を的確に指摘したりできる児童に対しては,読み取りの能力があるなど,「能力」という言語を用いて会話がなされることも多いようです.
しかし児童が,このような計算力や文章の内容を読み解く力を忘れることは,経験上ほとんどありません.このような能力について教師が議論するときは,それらの能力を児童が過去のある時点に身に付けた特性として考えている場合です.
このようなことから,学習内容を理解することと,能力を身につけることは同じではないことが分かります.
学習内容を理解するとは,児童や生徒が学習内容やその過程を正しく記憶に残すことです.即ち,学習が終了した時点で,児童・生徒の長期記憶には正しい学習の痕跡が残っていなくてはなりません.このような記憶はエピソード記憶です.
そして,その記憶を振り返るときが来たとき,その振り返る記憶のなかで教師が何を話し,自分や友達がどのような発言や行動をしたかを想起しながら,学習の結論と原因の因果関係に納得を繰り返して体制化(スキーマの形成)することで能力に変わるのです.(これらの過程で当然ながら,成功体験も経験します)
この能力の本質こそが意味記憶です.
Tulving(1972)は,意味記憶の定義を,「言語の使用に必要な記憶であり,単語やその他の言語的シンボルやその意味やその指示対象について,そしてそれらの関係について,あるいはそれらの操作に関する規則や公式やアルゴリズムについて,人が保管する知識を体制化した心的辞書である」としています.

授業においては,能力が身についた児童・生徒とそうでない児童・生徒の違いは,口頭での説明ができるか否かで明確に区別できます.能力が身についたと判断できる児童・生徒は,教師の新たな問いかけに対して,瞬時に返答することができ,それは説明を伴っています.即ち,原因と結果の因果関係を論理的に示すことができるのです.しかし,そうでない児童・生徒は,返答できず答えに窮します.この違いを考えるとき,例えば算数科の学習で,三角形の面積の公式「底辺×高さ÷2」を「理解した」とは,その公式が導かれる過程に納得し,公式やその過程を記憶痕跡に留めた状態を指します.そして,何度か練習を繰り返して,意識することなしに暗黙のうちに,自然に計算を行うなど公式を適用して問題を解けるようになった状態を「能力が身についた」と言います.
【解説】このことはスポーツについて考えてみると良く分かります.私は趣味でゴルフをするのですが,プロの選手などがYoutubeで打ち方を紹介しているチャンネルをよく視聴します.プロの選手は当たり前ですが,ゴルフボールを打つ能力に長けています.クラブの握り方や構え方,クラブの振り方などを,初心者にも分かるように説明すると同時に,実際にボールを打って模範を示してくれます.つまり,ゴルフボールを上手に打つ能力を身につけているからこそ,言語で説明ができるのです.
【博論続き】
一方で,記憶痕跡については,実体として捉えることができず,児童・生徒が学習内容をどのように関連付けて記憶に留めているかについては,これまでは調べることができませんでした.単元の学習終了後に行われている評価テストでは,記憶痕跡に残る言語を問う問題もありますが,それらの言語がどのように関連しあっているかまでは調べることはできません.
【解説】児童が学習の結果として獲得した知識が,どのように関連して記憶されているかを知る目的で開発したのが「記憶再生マップ」というマッピングです.