記憶の再生について考えるブログ

児童がどのようにして学習内容を理解するかを実践経験をもとに紹介しています.

現下の能力よりも重要なもの:ヴィゴツキーが見た発達の可能性

 回は,ヴィゴツキーによる発達の最近接領域の話題の続きです.

 回の話が,「発達の最近接領域」という言語を伴って,授業における指導法に絡めた一般的な話題になります.

 ィゴツキーは,前回の説明で例示した2人の子どもについて,8歳の問題を解いたことから同一の知能水準であるけれども,「発達状態も一致していると言えるか」と自問し,「明らかに違う」と自答しています.

 かに下の図を見ると,8歳としては同一の知能水準と言えます.しかし,AとBの子どもが知能に関してどれだけ発達しているかは,ⒶとⒷを見ると明らかとなります.当然,Ⓑの子どもの発達が進んでいますよね.

 ィゴツキーは,AとBの子どもの知能水準が,8歳現在でほぼ同じであるということよりも,ⒶとⒷのようなそれぞれの子どもの発達の最近接領域の違いに注目しているのです.この違いが,AとBの子どもの「学習の相対成績」に現れると説いています.このことを次のような言葉で示しています.

「発達の最近接領域は,発達の現下の水準よりも,知能の発達や成績の動態により直接的な意義をもつ」

「思考と言語」の記述をもとに作成した発達の最近接領域の説明図

 ィゴツキーは次に,発達の最近接領域について言及しています.つまり現下の知能の発達水準よりも,ⒶやⒷといった発達の最近接領域が重要であると述べて,そのための共同学習において,友達や教師などからの助けがあれば,子どもは自分一人でするときよりも多くの問題や解決が困難な問題を解くことができるということは,議論の余地はないとまで言い切っています.

 のことだけからしても,共同で学習させることには意義があると言えそうです.

 かしヴィゴツキーは,ある子どもを共同で学習させることで,その子が得た解答を「非自主的解答」と呼び,それは知能発達の指標や兆候にはふつうはならないだろうと述べ,そのような学びを「模倣」と称し,古い心理学の常識からは,模倣は機械的な活動と見る考えが根付いていると述べています.

 して,模倣は誰にでもできることですし,教えてもらいながらの学びでもあり,自分の知識については何も利用することもないので,発達状態を表すことは決してできないということがこれまでの常識であったとしています.

 ころが,ヴィゴツキーは,このような考えは間違っていると否定したのです.つまり,子どもは自身の知能の利用可能な領域内にあるもののみを模倣することができるということを主張しました.

 まり,自分よりも能力の高い人からの支援を受けて学ぶときには,自身のスキーマにある知識が使える時に,模倣することができるということになります.

 た,教える立場の人からは,相手のスキーマを考慮しながら指導することが重要であることが分かります.これは,教師としての指導においても同様で,以前にもこのブログで述べたとおりです.

 すから,学校教育においては,教える立場も習う立場も同じ児童であることが理想的であると言えます.なぜならば,同じ児童同士は,互いにどのようなスキーマが形成されているか(=どのようなエピソード記憶や意味記憶を保持しているか)などは既知であるからです.

 ィゴツキーの発達の最近接領域の理論については,ここで終了して次に移りたいと思います.

 

『思考と言語』から再考する「発達の最近接領域」:成熟した機能と成熟しつつある機能

 界の至る所で戦火が広がり,多くの人々の日常生活が奪われている現在,私たち教育に関わる者たちは,少なくとも教え子が戦火に巻き込まれることが無いような社会を目指して,日々の教育に対して責任を持つことが大切ではないかと考えてしまいます.

 ット等では,日本のこれまでの教育について批判的に意見を語る論客も最近増えてきたようですが,皆様はお感じになりませんか.一方で,私の身近な友(退職教員)が,これまでの日本の教育にどのような問題点があるか分からないと言っていました.実に悲しい話です.

 て,今回はヴィゴツキーによる発達の最近接領域の話題についてです.この内容については,「思考と言語」のp297 L16から約6ページにわたって書かれています.

 達の最近接領域については,多くの人がWeb上で説明を行っていますので,ここで改めて説明を行うのではなく,ヴィゴツキーが著書「思考と言語」でどのような説明を行ったかについて解説することにします.

 ①子どもの知的発達の水準について

 この章のはじめにヴィゴツキーは,「思考と言語」を記述するまでの心理学研究では,ふつうの子供の知的発達に限定して研究がなされてきたと述べ,子どもの発達状態をふつうの子どもの知的発達の水準だけで決定するのは不十分だと述べています.

 

 ②知的発達の水準の決め方について

 続いてヴィゴツキーは,このような水準をどのようにして決めるのかについては,子どもが自主的(注:おそらくは自力の意味)に解いた問題で決めると述べています.さらに,この水準については,「今日(today)」という言語を用いて表現していることから,日々変化する量であるという認識を持っていることも分かります.

 ここで余談ですが,既出の元教員の友は,子どもが書いた事からは,子どもが理解したことは分からないという意味不明な事を言っていますが,私にしてみれば,その友の言っていることが意味不明です.(^^;)

 

 ③発達の最近接領域の発想

 ヴィゴツキーは,はじめは今の発達水準だけを決定すると述べていながら,子どもの発達状態というのは,今の発達水準(注:これを成熟した部分と呼んでいます)だけで決定されるものではないと,自分の述べた事を否定しています.

 そして,リンゴ園の経営者が成熟した実を結んでいるリンゴの木だけで,リンゴ園の状態を明らかにしようとするのは間違いであると指摘したうえで,心理学者も子どもの発達状態を評価するとき,成熟した機能(=子どもができること)だけでなく,成熟しつつある機能(=子どもができつつあること)を,「発達の最近接領域」という言語を使用して,考慮しなければならないと述べています.つまり,子どもの発達状態を評価するには,現在の水準はもちろんですが,成熟に最も近づいた次に発達する領域をも考慮しなければならないと言うのです.これが発達の最近接領域の意味です.

 

 ④子どもの今の発達水準の決定方法

 ここで述べているのは,知能の発達であることを抑えて置く必要があります.つまり知的発達です.ヴィゴツキーは,今の(知的)発達水準を決定するときには,子どもが自力で問題を解く必要があることを強調しています.つまり,他者の力を借りた解決では測定できないということです.このときに出される問題は,既に成熟した機能のみを測定できる問題が利用されると述べています.ですから,学校教育の中で一般的に行われている評価テストが,凡そこれに該当します.

 

 発達の最近接領域についての思考実験

 ヴィゴツキーは,このあと思考実験を試みます.彼は,同じ8歳の知能年齢を持つ2人の子どもを想定しました.そして,彼らが自主的には解くことができない,その後の年齢の問題,つまり9歳の問題から12歳の問題を用意します.次に,これらのうち9歳の問題から順に誘導質問や解答のヒントなどを与えて教示しながら,彼らがどのように解くかを明らかにしようとします.

 すると彼らのうちの1人は,12歳までの問題を解くことができたのに対して,もう1人は,9歳までの問題までしか解くことができなかったと仮定しました.このときの2人の子どもが問題を解く様子としては,「共同のなかで助けられ,指示に従いながら」という記述があります.これが,どの程度の支援なのかは不明ですが,私の経験から考えるに,かなり支援の度合いが高いように感じました.

 この思考実験の結果を図にすると,次のようになると考えます.

「思考と言語」の記述をもとに作成した発達の最近接領域の説明図(無断転用は禁止します)

 ヴィゴツキーは,子どもAと子どもBの発達の最近接領域について,子どもAでは「1」で表され,子どもBでは「4」で表されると述べています.つまり,発達の最近接領域は,個々人でユニークで異なる値を示すということです.

 ここでヴィゴツキーは,さらに重要な提言を行っています.つまり,8歳までの問題においては,AとBの二人の子どもは同一の知能水準であると認められますが,発達状況においては二人は一致していないと強調しているのです.

 回はここまでとします.次回も,発達の最近接領域についてのヴィゴツキーの記述を読み解いていきたいと思います.

「脳内を覗く:私たちの思考は『言葉』ではなく『イメージ』で動いている」

 回は,次に挙げる博士論文の(A)の部分,つまり「学校教育においては内言による思考が重要であること」を紹介しました.

 の回では,(B)の内容について紹介したいと思います.

 習における思考活動において,ヴィゴツキーが「真の意味の思考になる」と述べた自己中心的言語は,生理学的には外言であるが発話の対象を自己の外に置かないことから内言であるという.つまり,このとき児童は,自分のために発話しているのであり思考しているのだ.また,学齢期の児童は内言を思考の手段として利用することが可能となる時期でもある.従って,学習の過程においてこの思考過程を仕組むことが大切であろう.・・・・(A)

 また,我々は心象によって思考する真の意味での思考の転写は,自己中心的言語によって発話され,それをもとに描かれる心象のみであると考えられる.従って,記号ではなく絵図による表出を児童の活動に仕組まなければならない.そして,その事を経て児童は思考の結果を記号化する.・・・・(B)

 のことを考える前に,最近の話題である衆議院議員選挙についてですが,自民党の大勝という結果に終わりましたね.このことは,少し今回の内容に関係がありそうです.

 さんはどうして自民党が,高市さんに対する多くの批判的なYouTube動画等が再生されたにも関わらず大勝したと思われますか.また一方で,YouTubeはよく見るけど,そんな動画は見なかったという人もいます.その仕組みについても書いてみました.

 憶の再生について考えるブログ別版」にその短縮版を掲載しています.あくまでも一個人としての考えですので,ご批判もあられるとは思いますが,よしなにお願いいたします.(^^;)

 て,今回のテーマに最も関係が深いのが心象です.心象とは,いわゆるイメージと捉えてもらって構いません.広辞苑には,「〔心〕意識に浮かんだ姿や像.心像(しんぞう)」と書かれています.

 れから,人間は心象によって思考するということについて考えてみます.そのためにはやはりヴィゴツキーの「思考と言語」を読み返して,心象についての記述を確認する必要がありそうです.そのうえで,自分自身の脳内を覗いてみましょう.

 「思考と言語」は,かなり読みごたえがある書物で,心象やイメージについての直接的な記述はなかなか見つけることができません.例えばこれは以前にも紹介したページですが,「第七章 思想と言葉」のp397 L9には,次のような記述があります.

 『内言を外言の記憶の形象における再生とみる筆者(注:ヴィゴツキー)だけが,内言を外言の鏡のような反映と見ているのである.』

 の主張は,ヴィゴツキーが内言の構文法を調査しているときに,当時の研究者と同様に内言は外言に比べて断片的であり,不完全であり,また,省略されていることを発見したが,自分(ヴィゴツキー)だけがその内言は外言の鏡のような反映と捉えていると主張する過程で出てきたものです.

 かに,自分自身の内言を省察すれば,その言語は完全な文ではないことが分かります.もし,完全な文が必要であったら,たぶん生きることは難しいはずです.なぜなら,読むのに時間がかかりすぎて会話が成立しなかったり,危険が迫っても自分自身の身体の安全を保てなかったりするからです.ところがその断片的で,不完全で,あるいは省略されている内言が,完璧な思考をもたらしてくれます. 

思考する人(AIにより作成)

 れが,内言を外言の記憶の形象における再生とみるという部分です.①形象とは広辞苑によれば,表に現れた形,姿,②人間によって知覚された事物の像,また観念などの具象化された像という説明がなされています.これはまさにイメージのことであると思われます.

 「外言の記憶」とは,外言によって表される過去の記憶という意味です.

 「その形象における再生」とは,過去の出来事のイメージの再生,つまりそれは記憶想起と考えられます.その実体はエピソード記憶であり,その再生ということです.

 たがって,内言はエピソード記憶の再生であり,またすでに獲得した意味があれば内言は意味記憶の再生でもあるということになります.

 は生活をする中で,様々な事柄の経験を記憶します.そのことについては,外言を用いてその内容を誰かに伝えることもできます.

 ここでヴィゴツキーが言っていることは,外言によって示される事柄の記憶想起されるイメージを伴った映像の内容が,内言という極めて断片的で不完全で省略されるような短い言語として発生し,その事によって思考がなされるということです.これは所謂,チャンキングのようなもので,ごく短時間で思考が完結するという素晴らしい効果を持った仕組みと言えます.

 に,「真の意味での思考の転写は,自己中心的言語によって発話され,それをもとに描かれる心象のみであると考えられるについて考えてみましょう.

 写とは広辞苑によると,文章・絵などを他のものから写し取ることと説明されています.ここで述べていることは,真の意味の思考とはどのようなものであるかということです.

 の思考,つまりその人が何を考えたのかは,脳内を覗くことができたとしても可視化できません.思考が言語ではなく心象(イメージ)によってなされ,その結果としての自己中心的言語(内言)が自らに向けて発話され,その記号化された言語から紙などに描かれたイメージが,その時の思考の本質であり意味であると言えます.

人間の思考の時間的経過(一例)

 れでは最後の部分,従って,記号ではなく絵図による表出を児童の活動に仕組まなければならない.そして,その事を経て児童は思考の結果を記号化する.」の説明です.

 般的な授業では,記号(文字)で全ての学習行動を処理しようとされる先生がおられますが,今回の内容をご理解いただけるのなら,それはかなり無理のある授業になります.それは,どの教科でも同様です.必ずといっても良い程に,児童生徒の学習行動では,どこかに絵図を描かせる過程を盛り込む必要があります.そのような思考の吐き出しを経て,記号化(文字化)をさせることが肝要だと思います.私の考案した「記憶再生マップ」では,絵図を多用し,それに付随させて文字による説明を書かせています.すると,ほぼ全員の児童が自分自身の学習について発話することができました.その理由は,今回の説明によってご理解いただけたなら幸いです.

 談ですが,私はかつて指導案をイメージを多用して描いた(書いた)ことがありました,当然ながらそれを理解できる先生など誰もいませんでした.

 回の投稿はこれで終わります.次回は,ヴィゴツキーによる発達の最近接領域の問題についてです.

 知らせ.現在,放送大学機関リポジトリでは,このブログで紹介している私の博士論文「小学校理科教育における指導方略の研究-意味ネットワーク・モデルとその発展型を用いた知識構成-」が再び「最も閲覧されたアイテム」において1位を継続しています.これは,2023年の12月から1位を続けていましたが,数か月だけ2位,3位に順位を下げ,再び1位に返り咲いたものです.そこで,英語圏の研究者向けに翻訳作業を行っています.予定では,4~5月頃に出版したいと思っています.このサイトにも海外からのアクセスがあっています.海外の皆様,もうしばらくお待ちください.

 

Notice. Currently, my doctoral dissertation “A study of teaching strategies in elementary school science education - Knowledge structure by development type of semantic network model-” introduced on this blog, continues to hold the top spot in the “Most Viewed Items” category on the Open University of Japan Institutional Repository. It had maintained the number one position since December 2023, briefly dropped to second and third place for a few months, and has now regained the top spot. Therefore, I am currently working on a translation for researchers in English-speaking countries. I plan to publish it around April or May. This site also receives access from overseas. To our international readers, please bear with us a little longer.

ことばが思考を導くとき:書き言葉と自己中心的言語の教育的意義

 2026年になりました.今年もよろしくお願いいたします.

 ころで,皆さんは1月7日(水)にNHKで放送されたクローズアップ現代最近,手書きしていますか? 最新研究が明かす"頭を動かす力"」をご覧になったでしょうか.

 校現場に限らず様々な領域でデジタル機器が浸透して,人間の書く能力が低下している現状が指摘されています.この番組は,手書きの重要性について再認識できる内容となっています.番組の途中でビデオ出演されている東京大学酒井邦嘉さんですが,ご専門が脳機能解析学と言語脳科学ですので,以前から先生のご研究には注目していました.

 の研究で使用している「記憶再生マップ」も手書きなので,その効果はこの番組で糸井重里さんらが語られている内容とかなりの部分で親和性があります.

 組の内容を簡単に書くと,次のようになります.

  • 手書き離れの影響スマホやPCの普及で「漢字が思い出せない」「字が下手になった」と感じる人が増加.研究では,手書きの減少が学力や認知機能の低下に関係する可能性が示唆されています.

  • 世界の動きスウェーデンなどでは,教育現場で再び「紙と鉛筆」を重視する動きが進行中.デジタルと手書きのバランスを見直す流れが広がっています.

  • 脳科学の視点:手書きは「マルチモーダル」な脳の働きを促し,記憶や思考の整理に効果的.MRI研究でも、紙に書くことで記憶の定着が高まることが示されています.

  • ジャーナリングの実践:社会人が「書く習慣」として取り入れる「マインドフル・ジャーナリング」も紹介され,思考の整理や自己理解に役立つと注目されています.

 回のテーマは,書き言葉自己中心的言語についてです.最初に書き言葉については博論では,ヴィゴツキーの考えを取り上げています.書き言葉はヴィゴツキーによれば,「通常の言語活動から切り離されたイントネーションを持たない言語であり,具体的な会話場面なしに行われる言語として,例えば,話し言葉を算数に例えるならば,書き言葉は代数と同じ関係にある」と指摘しています.

 の言葉の意味は,算数に例えられた話し言葉は,目の前に相手がいるので表情や声のトーン(イントネーション)で意味を捉えることができます.「これ」や「それ」,「あれ」などの曖昧な言葉も,相手と状況が共有されていれば意味が通じることになります.

話し言葉による会話 (生成AIによる図)

 かし,代数に例えられた書き言葉は,相手が目の前にいないので,状況が共有されないために,全てのことを明確に,また,論理的に書かないと意味が伝わりません.さらにイントネーションや表情の情報が使えないので,文章の構造や文法,語彙選びがとても重要になってきます.つまり,代数のように抽象的で一般化された表現が求められます.

書き言葉の記述 (生成AIによる図)

 れまで私たち教師は,一見簡便と思われる思考の表現として書き言葉を児童・生徒に要求してきましたが,実は難しい学習行動だったようです.

 

 は自己中心的言語についてです.博論では授業における思考活動について次のような考察をしています.

 習における思考活動において,ヴィゴツキーが「真の意味の思考になる」と述べた自己中心的言語は,生理学的には外言であるが発話の対象を自己の外に置かないことから内言であるという.つまり,このとき児童は,自分のために発話しているのであり思考しているのだ.また,学齢期の児童は内言を思考の手段として利用することが可能となる時期でもある.従って,学習の過程においてこの思考過程を仕組むことが大切であろう.・・・・(A)

 た,我々は心象によって思考する.真の意味での思考の転写は,自己中心的言語によって発話され,それをもとに描かれる心象のみであると考えられる.従って,記号ではなく絵図による表出を児童の活動に仕組まなければならない.そして,その事を経て児童は思考の結果を記号化する.・・・・(B)

 れらの内容で,今回は(A)について解説します.ヴィゴツキーが言う「真の意味での思考」とは,これまでにお話しした「ことば(言語)と思考の関係図」で言えば,

ヴィゴツキー著,「思考と言語」よりFurukawaが作成した関係図 (無断転用を禁止します)

ピンク色の部分となります.つまり言語的思考が真の意味での思考であると述べています.ではなぜヴィゴツキーが,このような主張をしたのかを考えてみましょう.

 ィゴツキーの著書「思考と言語」(日本語訳本)で,このことが記述されているのは,p133 L1~L4です.

「自己中心的ことばの問題にたち帰るなら,われわれは,明らかに自己中心的ことばは,純粋に表現的な機能放電の機能のほかに,子どもの活動にたんに同伴するということのほかに,きわめて容易に真の意味の思考となるということ,すなわち計画的操作の機能行動のなかで発生した新しい問題を解決する機能をはたすということを言わなければならない.」

 の文章を一つ一つ考えていきます.主語は自己中心的ことば(言語)です.自己中心的ことば(言語)とは,前回の記事で女子児童が呟いていたあの言葉です.これは主に「呟き」という形態で発話されます.ですから表現的な機能としては,その時の気持ちが素直に出てきます.例えば,「えっ」,「そうか・・・」,「あ~あっ」,「なるほど」などの感嘆の表出のことを述べています.

 れと似たものに放電の機能があります.心理学で言う放電は,心の緊張やストレスを軽減するための身体の作用で,「呟き」によってネガティブな考えを捨て去るなどはこれに当たると思います.例えば「くそっ!」という呟きを発して,次の行動に移るときや,「しかたないなぁ」と呟いて,もっと先の行動に目を向けるなどのことです.

 どもの活動にたんに同伴するとは,小さな子供が何かぶつぶつ言いながら遊んでいる時の「ぶつぶつ」を指します.

 ィゴツキーは,これらの事の他に自己中心的ことばがきわめて容易に真の意味の思考となると述べています.「容易に」かどうかは,議論の分かれるところでしょうが,ヴィゴツキーが「容易に」の前に「きわめて」と言っている意味は大きいと考えます.自己中心的ことば(言語)を発話すること自体に,意味を見出したのかも知れません.それは,自分自身に向けられたことばなので,自身にフィードバックされて入力される訳です.例えば,何かの問題について「これはどういうことか・・・」と呟いた矛先は自身に向けられるので,さらに思考が継続します.何かの問題点の解決策を考えている時に,思いついた策を呟くことで,自身に対する解決策について,一層と思考が深まるかも知れません.

 ィゴツキーは,この後,「すなわち」と続けています.ここが重要な箇所です.それは,計画的操作の機能です.この部分の解釈で生成AIを使ってみましょう.どのように説明するでしょうか.真の意味の思考」という部分の解釈が肝です.

 最初にCopilotの解釈です.

 この一節でヴィゴツキーが述べている「計画的操作の機能」とは、子どもが自己中心的ことばを使うことで、自分の行動を意図的に調整・制御し、新たな課題に対処する力を発揮するという意味です。

 つまり、自己中心的ことば(子どもが独り言のように話すこと)は、単なる感情の発散や行動の伴奏ではなく、思考の道具としての役割を果たしているということ。子どもはこの言葉を通して、自分の行動を「計画」し、「操作」し、目の前の問題をどう解決するかを考えているのです。

 たとえば、積み木で遊んでいる子が「こっちに置いて…次は高くしよう」とつぶやくとき、それは単なる独り言ではなく、自分の行動を導く内的な思考プロセスが言葉として現れている状態。ヴィゴツキーは、こうした言葉の使い方が、やがて内言(内なる言葉)へと発展し、より高度な思考の基盤になると考えました。

 次にGemini3の解釈.

 1. 「放電」から「手段」への転換
 初期の自己中心的ことば(独り言)は、驚きや不満などの感情を吐き出すだけの「放電的」なもの、あるいは行動に付随しているだけの「伴奏」のようなものです。 しかし、子どもが何らかの困難(例:絵を描いている時に鉛筆が折れる)に直面したとき、ことばの性質が変わります。「どうしよう?」「あ、あっちのを使おう」と独り言を言うことで、ことばは「問題を解決するための手段」へと変貌します。

 2. 「計画的操作」の具体的な意味
 「計画的操作」とは、未来の行動を頭の中で組み立て、自分自身の振る舞いを規定する機能です。

 以前: 行動が先で、ことばは後からついてくる(または同時)。

 計画的操作: ことばによって「まずAをして、次にBをする」という設計図を頭の中に描き、それに従って体を動かす。

 つまり、ことばが「行動の設計図」になることを指しています。

 3. 外的言語から内的言語への橋渡し
 ヴィゴツキーはこのプロセスを、「思考の知性化」のプロセスであると考えています。 自分の外側に向けて発せられていた「独り言」が、問題を解決するために「自分自身へ向けた指示」へと変わる。これが後の「内言(頭の中の声)」となり、私たちが大人になってから行う「論理的思考」の基礎になります。

 解釈のまとめ
 この一節でヴィゴツキーが強調しているのは、「独り言は無意味な未熟さの表れではなく、子どもが自分の意志で行動をコントロールし、論理的に問題を解こうとする『思考の誕生』の瞬間である」ということです。

 のような真の意味での思考は,前回(12月12日投稿)の女子児童の事例でお話をさせていただいた「熟考」に至る思考です.学校現場の授業をみると,様々な工夫がなされた授業が展開されていますが,指導すべき内容と指導時間との兼ね合いもあり児童・生徒が熟考する機会はあまり無いのではないかと感じています.

 考は言語的思考を伴いますので,脳内には言語が出現します.上の関係図ではピンクの部分ですが,それは誰かと会話するためのものではなく,自身に向けられていると考えることが重要です.ですから,誰かの発話・発言は,その人の思考の結果としての空気振動ということになります.従って,他者の発話・発言は,その人の過去の思考の結果であり,その意図を伝えるための作戦であり,それを読み解かなければ分かりません.

 た,生成AIの解説を読まれてピンとこられたと思いますが,文科省が言う自己調整学習との関係があります.簡潔に言えば,自己調整力を高めるためには,自己中心的言語を利用する熟考に自分自身を置かなければならないと言うことになります.このことは,文科省等の説明では,触れていないようですがとても重要なことですが,実践はしやすいと思います.

 回も長くなりました.次回は(B)について説明します.丁寧にお読みいただきありがとうございました.

 

 

見えない学びを見つめて:内言と教育評価の再考

 つも丁寧にお読み頂きありがとうございます.

 回は,博論の「5.ヴィゴツキーに見る概念形成」の続きになりますが,ヴィゴツキーの内言論を受けて,学校教育における認知分野の問題点を考えてみました.

 めは外言の問題です.外言は言うまでもなく,音声言語を利用した他者とのコミュニケーション時に,口から発せられる空気振動です.これから書く内容は,授業中での外言と内言に関する実体験です.

 のことに関する博論の記述は,ヴィゴツキーの外言と内言に関する考え方の後に次のように記述しています.

 「これまでの学校教育では,児童・生徒の思考については,彼らが表出したものを概観することにより,例えば、児童の表情が生き生きとしており,発言の内容が素晴らしかったので良い授業であった等,観念的に評価を行う場合が多々見受けられた.

 れはかなり批判的な記述になりましたが,次のような実体験が基になっています.

 いぶんと前になりますが,私が小学校に勤務していた時に国語科の校内研究会がありました.このような研究会は誰か一人の先生が代表となり提案授業を行い,他の教員は授業を参観して,その後,事後研究会と称される話し合いを行います.

 ではどこの学校であったかや,授業を行ったのは誰だったかなどは全て忘れてしまいましたが,今でもその時の光景を思い出すように衝撃を受けた事がありました.それは,一人の女子児童のある行動でした.

 のときの授業では,担任の先生が何かの学習行動を指示し,児童全員が一人で作業をしていたと記憶しています.たぶん先生が配布されたプリントに,児童一人一人が書き込みを行うというものであったと記憶しています.そのあと,先生が発問するたびに,多くの児童が挙手をして自分の考えを発表していました.

 して放課後は,授業研究会です.

放課後に研究授業について話し合う教師たち (生成AIで作成)

 業研究会では,多くの児童たちが挙手をして自分の考えを発表していたことに話題が集中して,とても良い授業だったという感想が,参加した多くの教師から出てきました.

挙手をする児童 (生成AIで作成)

 して,発表した児童たちの発言を回想しながら,学習指導案で意図された指導の内容と,実際の授業での様子を比べながら実際の授業で良かった点などを吟味したと記憶しています.ですから,とりわけて修正する指導箇所は出てきませんでした.

 まり,「挙手をする児童が多い授業=良い授業」という結論めいた司会の教師のまとめで,参加した全員が納得したのです.

 ころが私は研究会が行われているほぼ全ての時間を,ある児童の姿について考えていたので,発言もしなかったと記憶しています.そして最後には,「挙手をする児童・生徒が多い授業は,本当にそれで良い授業と言えるのだろうか」という事を考えずにはいられなくなりました.

 れは,ある女子児童の次のような行動に引き付けられたからでした.

熟考する児童(生成AIで作成)

 の児童は,教師が配付したプリントを眺めながら,鉛筆の先を何度もプリントに押し当てていました.彼女がそうしている間は誰とも話さずに,ほぼ無表情.しかし,特に困った表情をする訳でもなく,鉛筆の先を紙にタイミングよく何度も押し当て,時折,唇がかすかに動いていました.その姿はロダンの「考える人」と何か相通じるものを感じ,彼女が深く思考している事に気づきました.そして,事後研究会の話し合いの柱のひとつには,この児童の学習行動を充てるべきではなかったかという気持ちを持ったのでした.

出典 : https://juanfratic.blogspot.com/2011/05/de-lo-inmediatico-lo-reflexivo-pensar.html

 の授業は多くの挙手と発表が見られ確かによい授業ではあったのですが,この女子児童のように熟考する児童がいたこともよい授業であったことの根拠であると考えました.

 たち教師は,これまでの授業の評価において,児童・生徒がほとんど熟考すること無しに即断で課題を解決する姿が最も価値あるものだと考えていたようです.つまり,小学校や中学校の授業でもスキーマにそれまでの学習のエピソード記憶意味記憶があって,課題や問題の解決のために速やかにそれらを検索することが重要とされてきました.確かにそのような道具的・技術的思考は,児童・生徒が身につけなければならない能力であることに変わりありません.

 方で,様々な情報が飛び交う今の世の中を児童・生徒が生き抜いていくためには熟考する能力が絶対に必要です.私が研究授業のほとんどの時間で気になったこの女子児童は,内言による言語的思考を行っていました.これは正(まさ)に熟考です.この経験は,後々のこの児童の思考に非常に良い影響を与えたのではないでしょうか.

 しも,自己中心的言語や内言を利用した言語的思考を経験しなかったか,もしくはその経験が極端に少ない児童は熟考することができず,実際的知能である道具的・技術的思考でしか物事を考えることができないようになってしまったかも知れません.

ヴィゴツキー著,「思考と言語」よりFurukawaが作成した関係図 (無断転用を禁止します)

 れまで述べたように授業においては,外言による思考結果の表現をあたかも思考そのものであるかのように考え学習評価の対象としていました.

 かし,ヴィゴツキーが, 「思考と言語」の p135L16~p136L4 で「思考とことば(言語)が結びつくのは,言語的思考の領域のみである」と述べているように,それは真の意味での思考を映し出したものではないと考えます.

 は,児童・生徒の発表は思考と関係がないのでしょうか.ヴィゴツキーは,このことに対しては次のような事を述べています.つまり,それら(児童・生徒の発表等)は言語的思考の遠くからの非直接的影響は受けるが,それ(言語的思考)と何らかの直接的因果関係にあるものではないということです.ですから,発表を評価しても構わないが,思考そのものの評価としては違うということです.

 
 回はこれで失礼します.
次回は,書き言葉について考えてみたいと思います.

 ころで,博論とは直接関係ないのですが,最近の政治の話題で熟考する資料です.

 第70回国会 衆議院 本会議 第2号 昭和47年10月28日 大平正芳 外務大臣 答弁

子どもの思考を育てる“内言”の力:ヴィゴツキー理論から学ぶ授業づくり②

 回は,博士論文の次のような記述について説明します.

「さらに重要なことは,心象(イメージ)である.ヴィゴツキーは,内言の意味は心象であると述べているが,これは思考に心象が深く関わっている証拠である.」

 回,授業において自己中心的言語や内言を利用した授業展開が重要であることを書きましたが,読まれた方はそれらの言語を用いた思考は,いったいどのようにしてなされているのかということに関心が向くはずです.

 出の博士論文の記述からは,ヴィゴツキーが「思考と言語」の中で「内言の意味が心象である」という直接的な表現で記述をしているように思えますが,そうではありません.このことに関しては,中村和夫氏著の「ヴィゴツキー心理学」に学ぶことが多いです.

 

 村氏は,この本の「第2部 内言の概念をめぐって」のなかで,ヴィゴツキーの内言論について解説していますが,ここでは簡単にまとめだけを紹介します.詳しく知りたい方は,じっくりとお読みください.

 ず,ヴィゴツキーの内言論では2つの局面があるということです.一つは「言語的思考,特に概念的思考の発達論」という局面であり,もう一つは,「内言の意味論」という局面です.そして,どちらの局面からとらえても,内言論に共通することは,「内言論は人格論である」ということです.

 念的思考の発達論という局面についてヴィゴツキーがどのように考えたかについて中村氏は,「言語的思考の発達の最終段階即ちそれは概念的思考の段階において人間的に最も高次な意識・人格の発達を見ていた」と述べています.これを学齢期に当てはめれば,小学校の高学年から中等教育の時期であると言うことです.そして,概念的思考とは,まさに言語的思考であり,学校においての科学的概念の学びによって,自己意識の成立と深化がもたらされると述べています.

 ってこのことを根拠とするならば,小学校の高学年に近づけば近づくほど次第に内言による学習行動を仕組む工夫が,指導案の作成には絶対条件となる訳です.そうしないと,内言による思考の訓練が極端に減ることになります

 た,内言の意味論という局面については,「意味」と「意義」の区別について,中村氏は次のように論じています.

 味とは文脈が変わると,その言語が指し示す内容が変るものであるということです.例えば「赤」という言語は,植物の実の色であれば「トマトの色」であったり,人々の思想の範疇では「共産主義の色」であったり,国語科の読み取り手法の一つである心情色彩法では,「喜び,楽しさ,嬉しさなどの心情を表す色」であったりします.

「赤」の様々な意味

 方で意義は,人や状況によってまちまちであるということはなく,一定した不変な内容と言うことです.

 って「赤」の意義は,「可視光のスペクトル色の長波長端の色」と言うことになります.

言語「赤」の意義

 言の意味論についてヴィゴツキーが「思考と言語」で述べた内容について中村氏は,「内言は主観的な世界であり,語の意味は,語によって表現されるものに関係するきっかけが,意識の中にどれ程存在しているかによって決定される」と説明しています.これは以前から私が述べている「内言と記憶された知識との間に連関があるかないか」という問題になると考えられます.

脳内で発生した内言と記憶のつながり 

 の図は,中村氏の説明を私が図にしたものです.ヴィゴツキーは「きっかけ」という言語を,モメント(=モーメント moment)という言語で書いています.

 の図において事柄A~Eは,これから発生する内言と関係を持つ事柄です.これらは内言が発生する前,つまり普段は潜在化して意識上には上がって来ません.そうでないと人間は,その事が気になって生活ができません.

 のような時に内言が発生すると,この内言との関係事項である「事柄A~E」(意味記憶エピソード記憶)のうち,フック(きっかけ)が付いた事柄A,C,Dは顕在化して内言とつながりましたが,事柄B,Eはフックが無いために潜在化したままであることを表しています.

 は,このフックは何でしょうか.このことまでは,中村氏は言及していませんが,私の見方では,これは情動的な経験以外にはないと考えています.心が動かされた出来事は,その出来事を表す言語と深くつながります.つまりそれらは,モメント(上の図ではフック)を持つ記憶痕跡と言うことになります.

 のことに関連した内容は,すでに以下の記事でも紹介していますので,お読みいただければ幸いです.

授業における知識の形成過程 - 記憶の再生について考えるブログ

 て,ヴィゴツキー思考の内容や意識の内容を指す言語として,「思想」という言語を使用していますが,思想はそのまま内言の「意味」に外ならないことになります.従って,上の図の四角で囲まれた内言や内言によって顕在化した記憶,それに潜在化している記憶は思想であり,内言とそれによって顕在化した記憶は,イメージの姿で意識の中にあると言うのです.このことをヴィゴツキーは直接的な表現では「思考と言語」の中では記述していません.

 かし「思考と言語」の以下の箇所などは,内言の意味が心象(イメージ)であることを読者に推測させる表現です.

 p397L9「内言を外言の記憶の形象における再生とみる著者(注:ヴィゴツキー)だけが,内言を外言の鏡のような反映と見ているのである.」

 p415L1「単語の意味というのは,ポーランが言うように,その単語によってわれわれの意識のなかに発生する心理学的事実のみである.」

 の他にも確認できますが,ここでは省略します.つまり,ヴィゴツキーは内言の意味をイメージ(心象)と主張しているのです.

 かし,このことは誰でも簡単に認識することで,納得できるはずです.

 えば,今日はゴルフの予定だとします.でも,朝からどんよりした天気です.このようなとき,皆さんならどのような行動を取りますか.ある人は,手元にあるスマホウェザーニュースを確認したり,またある人は,テレビの天気予報を見たりしますよね.その時,あなたの脳では様々な思考活動が起こりました.どうですか,「今日の天気はどうだろうか」「ちょっとスマホで調べてみよう」などと内言が発せられましたか.

 そらくそうではなく,例えばゴルフ場がある場所の地図や実際のゴルフ場の情景が想起されたり,あるいはスマホの画面上にあるウェザーニュースのアイコンが想起されたり,実際にアプリを使って天気を調べたりしたことの映像が出てきたのではないですか.または,自然と手がスマホに伸びて,アプリを操作したのではないでしょうか.

 して,思考したことによる行動は人格の表現です.ですから内言論は人格論であるということで納得するはずです.

 の行動としての出力は,内言に由来しますから,教育においてどのような方策で内言の力を磨くかが重要ではないのでしょうか.

 かし,私の経験上では,外言ばかりがもてはやされ,「発表や発言が多い授業=良い授業」という考え方が教育委員会等の指導の定番でした.しかも,学力は一向に上がらないので,挙句の果ては家庭学習にその原因を転嫁することがなされてきました.

 育の現場で,これまで以上に内言の力を高めることができたなら,正しい判断ができるようになり,例えば詐欺の被害者になることも少なくなったり,政治的な問題も正しい判断ができるようになるのかも知れません.

 みに,ここからは少し宣伝めいたことになりますが,私が考案した記憶再生マップを利用した学習は,内言の力を高めるものと自負しています.(^^;)

質問に答えます.「言語的思考と道具的・技術的思考とは何ですか」

 回は,「5. ヴィゴツキーに見る概念形成」の2回目です.

 回述べたことは,授業では自己中心的言語(呟き)や内言による思考を取り入れた学習行動を授業の展開に盛り込むことが重要であることを述べました.

 ころが,これは私の勤務した佐賀県内の学校でのことですが,そのような学習行動が指導案の展開に盛り込まれた授業をほとんど見たことはありません.とにかく,最初から最後まで児童や生徒が発話する授業ばかりで,それが良い授業と考えられていました.また,一昔前の教育学部の授業では,ピアジェは学んだがヴィゴツキーはやらなかったとおっしゃる先生も多く見受けられました.

 育界のような権威主義的社会では,〇〇長,〇〇委員会,〇〇主事などの発する言葉が神の声として現場に届いてしまいます,間違っていなければいいのですが,言葉を発する本人も上司の言葉をそのまま伝えてしまいます.本来ならば,これらの人々がもっと学ばなければならないと思いますが,「自ら学ばぬ指導者」とでも言いますか,なかなか現実は上手くいきません.

 回は,このブログをお読みいただいている先生から質問を頂きましたので,その説明を行いたいと思います.ご質問は次の通りです.

ピアジェの提唱した自己中心的言語に対するヴィゴツキーの反論は興味深いです。ところで、ヴィゴツキーによる言語発達に対する考えを説明した図の中の内言についてですが、内言に媒介された「言語的思考」は分かりますが、それとは異なる「道具的技術的思考」とは、どういうものか、良く分からないので、ご教授下さい。

 質問に関係する博士論文の記述は,以下の通りです.

 「つまり,外言―自己中心的言語―内言という発話機能(内言においては,それが発せられることはないが)において思考と直接結びつくのは,自己中心的言語と内言であるとし,内言に媒介された思考を言語的思考と呼び,知能に媒介された道具的・技術的思考と区別している.」

 この記述における言語的思考は何となく理解できるが,道具的・技術的思考について説明せよと言うことです.

 ず,ヴィゴツキーが主張した言語発達の順序性に関してですが,例えば,幼い子が自動車を見て発話する「あっ,ブーブー」等が外言です.これは「言語と物の一対一対応」になります.この場合の外言は,まぎれもなく身近に居る親などに向けられていますからコミュニケーションの道具として機能します.このような言語と物の対応は会話成立のための一丁目一番地です.例えば私たち大人であっても,知らない言語を話す人と対面したとき,最も初期に行う行為は,「これは何と呼びますか」ということですね.幼児がブーブーと発話することも,これと同様の行為と考えられます.ところが幼児がブーブーと発声している時,これが思考かと言われれば疑問が残ります.なぜならば,この場合の幼児の「ブーブー」は,外界に自動車の印象を認知した後に,既に持っているブーブーと言う「音(おん)」を脳から引き出して発話したということにほかならず,その時間は瞬間的であり,当然ながら言語を利用した発話などではなく,ましてや思考などは行っていません.

 ころがヴィゴツキーは,このような外言とは意味や機能が異なる別の種類の外言が出現することを幼児が自由に遊んでいる最中に,その幼児が困ったり考えを攪乱したりする仕掛けを提示して確認しました.それが自己中心的言語と呼ばれるものです.これは一般的には,呟きなどと呼ばれています.この部分の記述は,「思考と言語」のp58L6~L19に書かれていますので,本をお持ちの方はご確認下さい.

 ィゴツキーは幼児期に自己中心的言語が出現するようになってから,思考が始まると述べています.ヴィゴツキーは,そのことを「われわれは,明らかに自己中心的ことばは,純粋に表現的な機能,放電の機能のほかに,子どもの活動にたんに同伴するということのほかに,きわめて容易に真の意味の思考となるということ,すなわち計画的操作の機能,行動のなかで発生した新しい問題を解決する機能をはたすということを言わなければならない.」と述べています.この記述は,「思考と言語」のp133L1~L4に書かれています.

 の後の記述でヴィゴツキーは,この自己中心的言語が心理学的に内的なもの,つまり,自分自身に向けられるものへと変化し,その後に生理学的に内的なものになると述べました.つまり,内言の出現です.この記述については,「思考と言語」のp133L5~L10に述べられています.つまり,真の意味の思考は自己中心的言語や内言によってもたらされるということになりますここの部分の理解は教師にとって非常に重要です.

 って授業では,学習者に思考させるためには,自己中心的言語(主に呟き)や内言を児童・生徒が発するような仕組みを用意することが必要になってくるのです.そして,この自己中心的言語や内言を用いた思考は,言語を介していることから言語的思考と呼ばれるのです.

 ここまでの記述を整理すると,外言の出現は比較的早い段階で起こり,その後に脳への刺激により自己中心的言語が出現することが明らかになりました.そして注意せねばならないことは,ここで述べている外言は,小学校や中学校の授業中に児童・生徒が話す外言とは異質なものであるということです.授業中の児童・生徒の外言は,ピアジェの述べている身の周りの様々な人々に充てた社会的言語としての外言で,これは思考の過程を経て発話されたものなのです.ここで,この時の思考について考えると,言語的思考と道具的・技術的思考が存在するのです.一方で,自己中心的言語である呟きが発せられたときの思考は,どちらかと言えば道具的・技術的思考であろうと思われます.

 は,ヴィゴツキーは,言語的思考と道具的技術的思考をどのように説明しているのでしょうか.それは,「思考と言語」のp135L16~p136L4に書かれています.この部分の記述は長いですのでリンクを張っています.じっくりとお読みいただければ幸いです.この段落に出てくる「ビューラーが指摘しているような道具的・技術的思考」ですが,自身が持つ言語や獲得した概念を問題解決のために道具のように利用する思考です.例えば,学習で獲得した知識が言語で表現できるなら,その言語を記憶想起させながら課題を解決するときの思考と考えられます.ですから,問題解決に対して,知識を道具のように使ったり,技術として利用したりすることで解決しようとする思考だと言えます.学校教育では,学習のまとめを言語で行うことが多いですね.

 こで,ここの段落を読んで思考と言語を図にすると,以下のような図になると考えています.ヴィゴツキーは「思考と言語」の中では関係図を描いていません.色々と調べましたが,ここのページの図を描いたものを見つけることができませんでした.この図は,改変の余地があると思います.よろしければご意見を頂けると幸いです.

 

ヴィゴツキー著,「思考と言語」よりFurukawaが作成した関係図 (無断転用を禁止します)

 の図を見て思うことは,非知能的言語は例えば「ヤバッ」と呟いたり,幼児が「ブーブー」と言ったりすることであろうと思われます.このような言語は,知能的とは言えません.

 た非言語的思考とは,イメージによって思考したり判断したりする部分であろうと考えました.例えば,サッカー選手がボールとゴールを見て,シュートするなどです.この場合は,言語を利用した思考などをする余裕もありません.児童が,算数の面積を求める問題を呼んだ後,瞬間的に図形を変形させるなどもこれに当たると考えられます.

 らに道具的・技術的思考は,学習によって獲得した公式などを用いて効率よく解を導くときなどの思考と言えます.学校の授業で話題になるのがこの思考です.

 して,最も重要なのは,言語的思考の部分で,自己中心的言語(呟き)や内言による思考です.冒頭でも述べましたが,このような学習行動は,あまり実践されていません.

 の言語的思考の部分は,自己の脳内では,非言語的思考や実際的知能の部分とは物理的につながっているので,常に情報が行き来するような訓練を行うことが重要と言えます.なぜならば,内省できるからです.

 在,様々な情報がスマホを媒体として脳内に入り込んでいます.つまり,他者とつながっているのは,実際的知能の部分と非言語的思考の部分であり,そこだけの思考で意思決定を行っています.詐欺や社会情勢の正しい判断ができない原因の一つがここにありそうだと考えています.

 回は,質問にお答えしました.ヴィゴツキーの著書「思考と言語」は,学校教育に関係する人たちに多くの示唆を与えてくれます.色々なご意見をお伺いさせて頂ければ幸いです.

 

子どもの思考を育てる“内言”の力:ヴィゴツキー理論から学ぶ授業づくり①

 回から数回は「5. ヴィゴツキーに見る概念形成」について解説していきます.レフ・ヴィゴツキーは,ロシアの心理学者として非常に有名で,これは彼の代表的な著書です.

 の中で論じられている概念に,外言と内言があります. 外言は音声言語でもあり,他者に向けられコミュニケーションに利用される言語で,ジェスチャーや手話も外言と考えられます.一方で内言は,頭の中で発せられる言語です.

 言や内言について,多くの人が説明をしています.次のブログもその一つです.参考になさって下さい.

psycho-psycho.com

 

 は博士論文(青色文字)の記述の一部です.なお,赤色文字は解説です.

 5. ヴィゴツキーに見る概念形成

 人間の思考については多くの先達の示唆を読み解く必要があるが,その中でも心理学者ヴィゴツキーは著書「思考と言語」において多くの示唆を残した.

 この中で注目すべきは,「内言」である.内言とは,言語音として外に出ない自己に向けられた言語であり,思考のための手段である.

 これまで多くの心理学者は内言と思考を同一視していたが,ヴィゴツキーはそのように捉えてはいない.

 彼は,外言(言語音)から内言への移行の中間にピアジェの言う自己中心的言語を置く.

 そして,それはきわめて容易に『真の意味の思考となる』 と述べている.

 ⇒アジェは,この自己中心的言語を「本質的には何も変化を与えるものではない」と述べています.このことは「思考と言語」p56 L2~3に書かれています.

 ⇒ィゴツキーは,これに対する反論をp59 L13~16で行っています.

 つまり,外言―自己中心的言語―内言という発話機能(内言においては,それが発せられることはないが)において思考と直接結びつくのは,自己中心的言語と内言であるとし,内言に媒介された思考を言語的思考と呼び,知能に媒介された道具的技術的思考と区別している.

 のことを説明する適切な図が無かったので,Googleが開発したマルチモーダルAIモデルのGeminiを使い,ヴィゴツキーの言語発達に関する考えを次のような図にしました.

ヴィゴツキーによる言語発達(Geminiとの共同制作)

 つまり,体系化された科学的概念を教授する学校における学習での,本当の思考のためには言語音として外に出ない自己に向けられた言語である「内言」を手段としたり,「自己中心的言語」を手段としたりする活動を仕組む必要があると言うのである.

 ⇒の文章をお読みになっている皆さんは,脳内で言語によって思考されているはずです.言語的思考ですね.

 ⇒の場合は,このブログの記事を読むという行為が原因となって思考活動が誘発されました.

 ⇒ィゴツキーは,幼児や児童に少し難しい課題を与えることで,自己中心的言語が誘発されることを確認しています.「何これ?」「どうして?」「どうしようかな」など色々です.

 ⇒のことは大人であっても,難しい本を読んだり,解決が困難な課題について考えることで,自身の内部から自然と言語が発生することを確認することができます.普通は,そのことを「呟き」と呼びます.例えば「あぁ」「えっ」「そうだっけ?」などの音声言語がポロリと出られた方もいらっしゃると思います.

 ⇒業の究極的な姿として一般的に考えられているのは,課題解決をするために授業の終盤で他者とのコミュニケーション活動を仕組み,得られた解決方法を発表し合うという授業展開があります.私も現役時代は授業の終盤では,このパターンは多く採用していました.そして最後には,学習のまとめが子供たちの発表を経て行っていました.

 ⇒アジェの考え方に従えば,これでよい訳です.しかし,ここにヴィゴツキーの考えを盛り込むと一層効果が上がると考えられます.ヴィゴツキーは,小学校の低学年頃から,内言による思考ができるようになると考えていました.

 ⇒のような学習行動を考えればよいかと言えば,一つは学習の最初ではない時間帯に,児童にとって少し難解な課題を入れ込むことです.それは,課題解決への材料が揃ってからの方が良いと思います.もちろん課題解決の時間に,内言が使えたらそれに越したことはありません.

 ⇒の経験で言えば内言を利用する思考,即ち言語的思考の前に,自己中心的言語(呟き)が出てくる児童・生徒がいるはずです.学齢期の児童では,むしろその方が良いと思います.

 

 さらに重要なことは,心象(イメージ)である.ヴィゴツキーは,内言の意味は心象であると述べているが,これは思考に心象が深く関わっている証拠である

 ⇒このことについては次回に詳しく解説します.

 

 今回も丁寧にお読みいただき,ありがとうございました.

理解することと能力を身につけること

 国学力テストの結果が出ました.全国的には,児童・生徒の成績が低下したことが話題に上がっていました.これには,様々な要因が考えられます.

 導内容やそれに係る評価の問題については,文科省が十分に反省すべきでしょうね.

 習用タブレットの問題は,スマホ利用の問題とも関連して,医学や脳科学との関連性で再考されるべきでしょう.児童・生徒は,学校でタブレットを8時間程度利用し,家庭ではスマホを数時間利用します.つまり,寝ている時以外は常にスマホタブレットを注視し操作していることになります.家庭でのスマホの利用を抑制できなければ,学習用タブレットの利用を制限することも必要かもしれません.せめて学校で生活する時間だけでも,情報端末機器から距離を置いて,脳をもっと使う経験を優先することは意味のある事のように感じます.

 て今回は,このことに関係のある話です.「4.理解することと能力を身につけること」について述べたいと思います.今回も,博士論文の原文に沿って若干の補足や文末表現の修正を行い,ほぼそのまま転記します.なお写真は,説明のために今回用意したものです.

 

【博論ここから】

 科教育において学習内容は,文章や図表,数式など形式知として板書や教師の発話によって児童に提示されます.授業の目的は,児童・生徒がそれら思考や発言の素材として自由に使うことができるようになることです.ところが,(現在の学校教育では)全ての児童・生徒が自由に使うようになるかと言えばそうではなく,部分的に利用できたり,全く利用できなかったりする人も見受けられます. 

算数科板書例

解説】ここで述べているのは,このような板書の授業があったとして,下図のAのみ,つまりこの場合は,言語で表現された公式のみ獲得して授業を終わる児童がいることが問題であると述べているのです.しかし,この板書にはBやC,DのようにAを導くために利用したコンテンツが多数あるのです.

 児童が学習で利用したこれらの知恵は,一般的にはまとめの段階で話題に上りますが,児童が記憶すべき内容としては公式のみが取り上げられ,特に重要視されない場合が多いように感じます.しかし,物事を因果関係で述べるならば,原因である図形の考え方は全て重要であることには違いありません.

 

 

【博論続き】

 のことに関連して教師どうしの会話では,「理解」という言語がよく使われます.あの児童は学習内容をよく理解するとか,あまり理解できないなどは,授業の成果を議論する場合によく聞かれる会話です.例えば授業中の児童・生徒の発言が,学習の課題に対して,教師の意図する内容を伴った的確な表現であれば,その児童・生徒が学習内容を理解できる,又は理解できたと判断します.しかし,一旦理解したとしても,その状態が永久に続くとは限りません.むしろ,学校教育においては,児童が理解したことを忘れてしまうことはよくあることです.

by Bing Image Creator

 方,「能力」という言語については,例えば算数科において,計算が素早くできる児童に対して,あの子は,計算の能力があるとか,計算力があるなどの表現が使われます.また国語科では,物語の登場人物の心情を豊かに読み取ったり,説明文での筆者の主張が述べられている箇所を的確に指摘したりできる児童に対しては,読み取りの能力があるなど,「能力」という言語を用いて会話がなされることも多いようです.

 かし児童が,このような計算力や文章の内容を読み解く力を忘れることは,経験上ほとんどありません.このような能力について教師が議論するときは,それらの能力を児童が過去のある時点に身に付けた特性として考えている場合です. 

 

 のようなことから,学習内容を理解することと,能力を身につけることは同じではないことが分かります.

 学習内容を理解するとは,児童や生徒が学習内容やその過程を正しく記憶に残すことです.即ち,学習が終了した時点で,児童・生徒の長期記憶には正しい学習の痕跡が残っていなくてはなりません.このような記憶はエピソード記憶です

 して,その記憶を振り返るときが来たとき,その振り返る記憶のなかで教師が何を話し,自分や友達がどのような発言や行動をしたかを想起しながら,学習の結論と原因の因果関係に納得を繰り返して体制化(スキーマの形成)することで能力に変わるのです.(これらの過程で当然ながら,成功体験も経験します)

 の能力の本質こそが意味記憶です. 

 Tulving(1972)は,意味記憶の定義を,「言語の使用に必要な記憶であり,単語やその他の言語的シンボルやその意味やその指示対象について,そしてそれらの関係について,あるいはそれらの操作に関する規則や公式やアルゴリズムについて,人が保管する知識を体制化した心的辞書である」としています.

心理学者 Endel Tulving(1927-2023)

 業においては,能力が身についた児童・生徒とそうでない児童・生徒の違いは,口頭での説明ができるか否かで明確に区別できます能力が身についたと判断できる児童・生徒は,教師の新たな問いかけに対して,瞬時に返答することができ,それは説明を伴っています.即ち,原因と結果の因果関係を論理的に示すことができるのです.しかし,そうでない児童・生徒は,返答できず答えに窮します.この違いを考えるとき,例えば算数科の学習で,三角形の面積の公式「底辺×高さ÷2」を「理解した」とは,その公式が導かれる過程に納得し,公式やその過程を記憶痕跡に留めた状態を指します.そして,何度か練習を繰り返して,意識することなしに暗黙のうちに,自然に計算を行うなど公式を適用して問題を解けるようになった状態を「能力が身についた」と言います. 

解説】このことはスポーツについて考えてみると良く分かります.私は趣味でゴルフをするのですが,プロの選手などがYoutubeで打ち方を紹介しているチャンネルをよく視聴します.プロの選手は当たり前ですが,ゴルフボールを打つ能力に長けています.クラブの握り方や構え方,クラブの振り方などを,初心者にも分かるように説明すると同時に,実際にボールを打って模範を示してくれます.つまり,ゴルフボールを上手に打つ能力を身につけているからこそ,言語で説明ができるのです.

 

【博論続き】

 方で,記憶痕跡については,実体として捉えることができず,児童・生徒が学習内容をどのように関連付けて記憶に留めているかについては,これまでは調べることができませんでした.単元の学習終了後に行われている評価テストでは,記憶痕跡に残る言語を問う問題もありますが,それらの言語がどのように関連しあっているかまでは調べることはできません.

解説】児童が学習の結果として獲得した知識が,どのように関連して記憶されているかを知る目的で開発したのが「記憶再生マップ」というマッピングです.

 

感嘆詞から読み解く理解のメカニズム──教育現場における概念の芽生え

 新が遅くなりました.

 て前回ですが,教師の発話だけでは,児童が言語を理解できない場合の対応ということでした.最初に理解できない原因としては,児童の耳に入った言語音で構成される言語概念がスキーマに無いことに起因することを述べ,その対応としては,概念メタファーの利用を提案しました.その他には,ジェスチャーも有効である場合があります.

 して最後に出した「a=a+1」ですが,当然ながら先生方のスキーマに何か関連する記憶がない場合は,「このような等式が成り立つはずはない」と思われたのではないでしょうか.

 れはコンピュータのプログラムでした.つまり,コンピュータに命令を与えるコマンドと呼ばれるものです.その意味は,「aの値に1を加えて再びaにその値を入力する」という命令文です.例えば,aが0の時,a+1の演算をすると全体で1という値になりますね.この1という値を,aに代入するという意味です.つまり「=」は,左辺の変数aに右辺の値を「入力する」という意味になります.そして,この操作を繰り返すと,左辺のaは,1,2,3,4,・・・と1ずつ数が増えていくことになります.デジタル時計などの数字が,1ずつ増えるのはこの仕組みを利用されている場合が多いと思います.

 後,情報教育が小学校に導入される場合は,このような話も出るかもしれません.

 

 て今回は,「3.授業における児童の概念形成を実感する場面の例」について説明します.今回は,博士論文の書きぶりが簡潔ですので,ほぼそのまま博論の表現を転記します.

 業でよく耳にする児童の概念形成を確認する言語があります.例えば,「ああ」です.それまで,浮かない顔をしていた児童が突然,嬉しそうな表情に変わり,うなずきながら「ああね」などと呟くことが多いです.その瞬間は児童一人ひとり違っているのですが,電子黒板などに映像を提示したときなどは,比較的同時に多くの児童が,「分かった」などの言語を発することが多いものです.映像を提示するときばかりではなく,発話やジェスチャーでもこのような感嘆の言語を聞くことがあります.

 た,授業の心象が言語の概念化に寄与する場合があります.例えば,3年生の理科の時間に,チョウの育ち方の学習で次の図のような板書を行いました.

 の板書は,授業をまとめながら描いたように記憶しています.児童は,頑張って自分のノートに記録することになります.一部の市販されている理科ノートでは,絵や写真がすでに印刷されてあり,児童は文字だけを記すようになっていますが,このような理科の学習にあってはナンセンスと考えます.やはり,書きぶりの良しあしに関わらず,自分で描くことが大切です.

 

 の翌日の理科の授業で,何も書いていない黒板を使い,前日に絵を描いた位置付近を指さして,「昨日の勉強で,ここに何か描いたよね」と児童に問いかけると,「チョウのたまご」や「幼虫」などの声が聞かれました.

 らに続けて,「卵の色は何色だったかな」と問いかけると,「黄色!」と言う声が一斉に返ってきました.

 まり,このような児童の反応は,昨日の授業によって映像とともに,チョウの卵や幼虫の概念が心象とともに形成されていたことになります.

 のことから,児童は学習内容を記録した黒板の心象を記憶していることが示され何も書かれていない黒板を使った教師のこのような行動が,再び学習内容を概念化するエピソードの心象として記録されることになりました.

 童が経験した中から,記憶に留められた物や事柄は,そのエピソードとともに主に心象として記憶されます.例えば,見たものは色や形や大きさなどの属性が,そのイメージとともに記憶されます.

 こまでが博論に書かれている内容でした.

 こに示したように,児童の概念形成を実感する場面は,授業を行っている教師ならば幾度となく経験することになりますが,その時,先生が今回述べたことに気づけば,教師という仕事の大きな武器となり得ます.

 お,以下の記事は,今回の内容と関係のある記事です.

kiokusaisei.com